
プルス・ウルトラ・・・・・・、それは1990年白鴎大学の記念すべき第1回卒業式で大学創設者、上岡一嘉初代学長が、建学の精神を卒業生たちに託すべく、贈った言葉だ。
上岡一嘉初代学長は「諸君の母校、白鴎大学は、日本が守りの時代に入ろうと、校歌に歌われた理想、『若き情熱の学府』を高く掲げて邁進してまいります。」と挨拶したあと、アメリカ新大陸が発見された頃のスペイン王国の紋章に刻まれた「PLUS
ULTRA」という言葉に触れ、「この言葉は、『さらに向こうへ』という意味であり当時のスペイン人の飽くなき好奇心を示すものであります・・・・・・。」と語り、「諸君、我々のこれからは、波乱万丈であろうかと思います。しかし、お互いプルス・ウルトラ、この言葉を胸にこれからも堂々と前進していこうではありませんか。プルス・ウルトラ、さらに向こうへ」と挨拶を結んだ。
新大陸が発見されるまで、スペイン王家の紋章には、ジブラルタル海峡を象徴する二本の柱の図案に添えられて、「NE PLUS ULTRA」という文字が書かれていた。ラテン語で「この先はなし」という意味である。天動説が信じられ、ジブラルタルの西で世界は終わると考えられていた時代、それは、世界の最果てを守る王国の誇りにふさわしい標語だった。
しかし、1492年、それまでの世界観は根底から覆された。コロンブスによる新大陸の発見である。ジブラルタルは世界の果てではなく、その先には、想像すらしなかった新世界が開けていたのだった。王家の紋章は、「NE
PLUS ULTRA」から否定詞の「NE」がとられ、「PLUS ULTRA」(さらに向こうへ)と変えられた。
プルス・ウルトラ・・・・・・、それは、未知の世界へ果敢に挑戦したチャレンジング・スピリットの象徴であると同時に、人々の価値観を変え、世界観を変え、意識革命をもたらした言葉だ。
その開学の式典で、上岡一嘉初代学長は、「たった一度の人生に情熱的にチャレンジして欲しい」と熱く新入生に呼びかけたあと、建学の精神に触れ、「自分は何をもって社会に貢献できるか、従来の捕われた観念を打破して、新たな意識革命に白鴎の学生が目覚めて欲しい。小さいながら白鴎大学が、永遠に若き情熱の学府として、永遠に新しい学府として、社会の進展に応分の貢献ができたら、これにまさるものはない」と式辞を述べた。そして、大学開設の理念として、「時代の要求に応え、国際感覚とその実行力に直結した語学力を兼ね備えた、バランス感覚に鋭敏な人材の育成に努める」と、国際社会に羽ばたくことのできる能力と技術を身につけた人材を育て、世界に飛翔するビジネス・リーダーの育成を目指すことを力説した。
「新しい世界への拡大、発展を目指し、限界をつくらずに果敢に挑戦してゆく。限界というものは、自ら作ってしまっていることが多いものなのです」と語る上岡一嘉初代学長が、プルス・ウルトラに託して、社会に巣立ってゆく学生たちに伝えたのは、一人ひとりが、新しい発見の世界を目指して、広い視野と豊かな心で羽ばたいてほしいという願いだった。
日々に新たな発見をし、自ら限界を作らずに、日々、意識を革命し続ける、そんな建学の精神だった。以来、今日まで、それは白鴎大学のモットーとして後輩たちに受け継がれている。
上岡初代学長は書いている。「マルベリー正面に刻まれたギリシャ文字は『生きている限り一生懸命生きよ』との意味である。これは、自らのモットーであると同時に、本学に学ぶ学生諸君への願いをこめたものである。物質的豊かさがしごく当然のこととなるに至った現在、人間はともすればその豊かさに甘え、生来与えられている力を活性化させるための努力を怠りがちである。それを戒め、かつ、本学に青春の夢を求めた学生諸君もまた、時を無駄に過ごさぬようにとの思いをこめて刻んだ文字である」・・・・・・と。
学生の視野を広げ、国際感覚を養うために、海外研修を慣例化したり、積極的に海外からの留学生を受け入れたのも、信念に基づいた上岡一嘉初代学長の教育方針だった。韓国、フィリピン、オーストラリア、台湾、そしてアメリカ合衆国からの留学生たちが、このキャンパスで学んだ。また、アメリカ合衆国シャミナード大学との姉妹校の関係を結んだのも、その思想を反映したものだった。
自分の信念に忠実で、既成の価値観や習慣にとらわれない上岡一嘉を象徴する、白鴎女子短期大学時代のエピソードがある。創設当時、学長代行だった上岡一嘉は、開学にあたって学生たちのための図書館を少しでも充実させたいと考え、アメリカ合衆国の新聞に小さな広告を出した。
「当方、日本の小さな短大であります。どなたか書籍を寄贈していただけませんか」
この呼びかけに、南カリフォルニア大学教授のゴードン・ワーナー博士が応え、図書館に何百冊もの本を寄贈してくださったのである。そんな図書館も現在では16万冊を超える蔵書を有する充実した施設となっている。また、ワーナー博士の功績を後世に残すべく、1981年にお招きし、植樹をして頂き、記念庭園「ワーナーガーデン」と名付けられた。
また、白鴎女子短期大学時代、上岡の『プルス・ウルトラ』の精神が最も如実に発揮されたのは、英語科と幼児教育科でスタートした白鴎女子短大に、1980年、経営科を新設したことだろう。女子短大に経営科をつくることなど誰も考えていなかった、まだ「花嫁修業」という言葉が残っていた時代である。先見性と既成の価値観を打破する信念である。
上岡は、いまだ社会的なニーズもない経営科が、必ず必要とされる時代が来ることを確信していた。と同時に、そのような、女性が本当に自立する時代が訪れることを、教育者として願い、夢見ていたのである。白鴎女子短大は、日本で最初の、経営科を新設した女子短大となった。

『敷かれたレールのうえをのんびり歩くのではなく、自分の手で自分の目的に向かったレールを敷き、世界の舞台に飛翔していくことが大事なのです』(上岡一嘉)
上岡一嘉は、1919年、父長四郎、母た津の長男として栃木県足利市に生まれた。
1943年、早稲田大学商学部を卒業した後、数年足利学園高等部で教鞭をとり、1948年、連合国総司令部・民間情報教育局、東京都庁経済局に勤務。1954年から56年まで、法政大学経済学部・経営学科兼任講師、マニラ、イースト大学商学部客員講師、青山学院大学経済学部専任講師をし、1957年に青山学院大学経済学部助教授に就任。また、1957年にはアメリカ合衆国インディアナ大学商学部客員講師として、1960年には琉球大学文理学部教授として、西ドイツ・ベルリン自由大学市場経済研究所・客員研究者として、それぞれ各国に招聘された。その間、上智大学経済学部、中央大学商学部の、それぞれ非常勤講師なども歴任した。
そして、1963年から67年まで、青山学院大学経済学部教授としてマーケティング論を担当。1967年から76年までは大阪学院大学商学部で、マーケティング論と市場調査を担当する教授として教壇にたった。
その間1946年に著した『哲学講話』に始まり、後年1995年の『商学総論』まで、著作の数は38冊にのぼる。専門分野であるマーケティングに関する著作、経営論、企業論、比較文化論、エッセイ。幅広い人間性を物語るように、その範囲は多岐にわたっている。
半世紀にわたり、色々な大学で教鞭をとりながら、しかも母た津の学校経営に手を貸し、多忙を極めていたはずの上岡を突き動かしていたのは彼の愛する言葉の通り「情熱」、尽きせぬ情熱だったに違いない。
故郷栃木県に戻るのは、白鴎大学女子短期大学学長に就任する1976年のことである。上岡一嘉の幅広い著書と並び、そのエネルギッシュでインターナショナルなキャリアは、そのまま、白鴎大学の校風である。抽象論ではない。上岡一嘉が教育者として各大学で感じ思考し、経験を通して肉体に刻んだ視野の広い教育の理想像が、白鴎大学のカリキュラムに、教育方針に反映されてる。
ノンフィクション作家、早瀬圭一は、上岡一嘉初代学長の追悼の書『白鴎の心』の中で、インディアナ大学時代の同窓である、富国生命社長・小林喬氏の発言を引いて書いている。「小林は、『アメリカの良き時代で留学生や研究者に対する、アメリカ人の心の広い思いやりを体験したので、上岡君は大学運営にそれを生かしている』と言っているが、とてもすべては紹介しきれない」と・・・・・・。
また、早瀬は、上岡夫妻が仲人をした坂井幸三郎青山学院大学教授のこんな言葉を紹介している。「調査に始まって調査に終わるというのが、上岡先生の口癖でしたねえ。とにかく坊ちゃんタイプで、言いだしたらきかない。のめりこんだら、とことん、という人でした。明治製菓、東芝、サッポロビール、カルピスなど一緒になって市場調査し、それを、企業にも学問にも生かしました」
この坂井教授は、文化放送でディスクジョッキーをしていたことがあり、夏の高校野球で甲子園に初出場した足利学園について、上岡に電話インタビューした時のテープがあると、早瀬圭一は、坂井教授と上岡一嘉の会話を、その後に紹介している。
坂井「きょうの相手はどこでしたっけ?」
上岡「鹿児島商業」
坂井「これは強い」
上岡「10回出場だね。これは相当力があります。向こうの監督は、5点以上の差で勝つ、とインタビューで言ってます(笑)」
坂井「そうすると、先生の方は5点以上の差で負けるということになりますね(笑)」
上岡「ウーン。でもやってみなければ分からんからね甲子園という所は面白いところで、強いと思われているところが必ず勝つとは限らんからね(笑)」
この試合は、結局、おおかたの予想を裏切り、足利学園が1対0で強豪鹿児島商業を下した。強い者が勝つとは限らない。大きな者が勝つとは限らない。チャレンジ・スピリッツを重んじ、既成概念を打ち破ることを信条とした、上岡一嘉の人生哲学の一面を垣間見せるエピソードだ。
試合を前に、上岡一嘉に出陣の挨拶をする学生たちに、上岡は必ずこう言ったという。
「大敵といえども恐れず、小敵といえども侮らず」
この言葉は試合に臨む運動部員にだけ語られたわけではない。おなじ言葉を投げかけられ、励まされた職員スタッフは多い。
また、加藤考白鴎大学教授・元経営学部長は、建学の精神について語った上岡一嘉初代学長のこんな言葉を紹介している。
『白鴎大学が目指す教育の目標は、将来の社会発展の主役であるべき若者を、型にはまった標準化された人間に育てることではない。自らの努力で、自らの責任で、生き甲斐のある人生を切り開いていくような人材へと育てることである。社会発展の活力の源となり、地域の自立的発展を推進させるような人材として、社会に送りだしていくことである』
学長最後の年となった1991年の大学案内に、創設者上岡一嘉として、若者たちに呼びかけている。
『白鴎大学は、過去の知識を、未来の主役である諸君に押しつける大学ではない。私たちは何よりも、自らの勇気と知恵で未来を切り開くチャレンジ精神を、君たちに贈りたい』
上岡一嘉初代学長は、1991年3月6日逝去された。享年71歳。絶筆となった遺書は、こう結ばれている。
「私は仕事に打ち込んだ人生だった。惰性で過ごすことなく、情熱的な人生を送れ、そして、人様のために、つくすことも忘れずに。」
人を愛し、人と交わり、思考し、思考を実践に移し、教育一筋に身を捧げた人生だった。
情熱をもって人生を切り開くことを愛し、情熱をもって人生を切り開く若者たちを心から応援した人生だった。その信念が、白鴎大学のあらゆるところに脈打ち、スタッフに、そして学生に、受け継がれている。
 |
上岡一嘉 KAZUYOSHI KAMIOKA
1919.12〜1991.3
1943年早稲田大学商学部卒業
戦後GHQ、東京経済局勤務を経て青山学院大学教授、
早稲田、法政、中央、上智大学の講師を歴任。
商学博士
主著に「マーケティングの知識」(日経文庫)
「外国企業の商法」(日経新書)
「U.S. History--A Japanese View--」(丸善)
「異色経営者論」(毎日新聞社)
「企業形態発展論」(紀伊国屋書店)などがある。
|
|